情報が多くなると考えない人が増えるんじゃないか。
情報が多くなって、経験した気になる体験が増えるから、というのが持論。
衆愚的になったり、作られた虚像の中に羨望を抱いてしまう人が増えていると感じる。
「批判的に物事を見る」ってことがもっと求められているんじゃないか、といいたい。
テレビニュースで流される情報を真に受けるのって馬鹿じゃないの?的な感覚ってあると思うんです。
それは、今ではソーシャルメディアを通じて生の声が届くようになったからだし、僕ら80年代の人が育つ環境では、経済も衰退し始めて、もともとマスコミって・・・的な議論はあったと思うので、そうでしょう。
そのうち、(今でもそうか)、FacebookやTwitterで流れる情報なんて真に受けるの馬鹿じゃないのって感覚になると思う。(し、今でもそうか)
元々、自分に不利な情報なんて誰も発信しない。それは当たり前。
自分のコンプレックス情報なんてリアルネームの世界では公開はしないんだな。
基本は自分に取って良いことを書いている。
例え、最近多い「誰得」とか書いていても、基本は発信者は自分のポジションのためだったり、得だと思っているわけで書いている。少なくともマイナスではない。
瞬間ピークの数字や状況を平時のように書いている(と思ってみた方が良い)
歪んだ見方と思われるかもしれないけど、
裏話を聞くと現実はそれに近いことが多い。経験上。
最近じゃ、「Mixiが死ぬ」なんて書いて炎上という話もありましたが、
やっぱり尖ったことを書こうとする力が全体として働いている。
誰もがメディアを持てる時代になったからこそ、
大きなところで、民衆やフォロワーにどう思わせようか、
と考えている枠組みや組織、個人は増えているわけです。
分かっててうけとるのか、素直に受け取るのか。
当たり前のことだが、全ての情報に意図はある。
相手の意図を理解した上で、情報を理解し、打ち返す。
批判的にものごとを捉えないと、
経験に紐づかない薄い思考でまとまって、
気づいたら自分がなくなってしまいます。
この前、ある大学生の面接をしていたんだが、
自分の意見がないし、自分が何者かも説明できない、自分の行為を説明できない、
結果、面接にならないという状態になって、衝撃的な経験だった。
このサンプルだけで一般論は語れないけど、そんなきっかけで書いてみた。